by iwawai1980
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♫バンブーオーケストラ 東京公演決定! 竹の生えていないアメリカでの公演を通し、新たに竹と向かいあった4年間。ぜひお越し下さい! BAMBOO ORCHESTRA JAPAN 竹天突(たけてんつく) 2007年5月18日(金) 開場18:00 開演18:30 @品川きゅりあん 小ホール チケット:前売 3,500円 当日 4,000円(全席自由) ※学生以下は1,000円引き ♫日本テレビ「ぶらり途中下車の旅」にバンブーオーケストラが出演しました! オンエアの映像がHPにUPされました。見逃した方は、こちらからどうぞ! ♫ 8月31日(金)にルネ小平で、日本フィルの打楽器奏者、福島喜裕さんとコンサートをすることになりました。詳細が決まり次第、お伝えします。 ◆CONCERT◆ ♬ タイコのじかん percussion ensemble concert vol.3 2007年8月25日(土) @国立オリンピック記念総合センター小ホール おかげさまで、3回目のコンサートを開くことが決まりました。ぜひ、おいで下さい! ◆LINK◆ このブログはリンクフリーです。気軽にお声をおかけください! ♪ WORLD-BAMBOO バンブーオーケストラのHPです ♪ <・))>< の らくがき 大学の同期<・))>< のブログです ♪ yumiko.blog 打楽器仲間yumikoちゃんのブログです ♪ "WiLL" be fine!! 打楽器仲間はっしーのブログです ♪ TUK-PAK 打楽器仲間madoka、mayu、piroshiの魅力溢れる3人のユニット。彼らのブログはこちら。 ◆CONTACT◆ ご意見、ご要望、一緒にコーヒーを飲みたいetc…どんなことでも、こちらまでお気軽にご連絡ください。 お気に入りブログ
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いきなり、汚い素顔をお見せしてしまって 申し訳ない。 この写真を見て「なんだこりゃ!?」と思った あなた! 今日はその「なんだこりゃ!?」について 書くので、それじゃこっちの思う壺である。 写真は、今週末の公演のために作った 紛れもない楽器である。 名を「又三郎」という。僕が命名した。 その由来は、風に吹かれて音がカラカラ鳴る 姿から、かの『風の又三郎』から拝借した。 『風の又三郎』には、 “どっどど どどうど どどうど どどう” という得も言われぬ風の描写があるから、 これをどうするかが今後の課題である。 さて、この「又三郎」を見て、どう思ったであろうか? 「なんだこりゃ!?」「どんな音がするんだ?」と、思った方はこの先を読んでください。 「興味なし」と思った方は、読まなくてよろしい。 みなさんは、楽器を見て強烈な印象を持つことがあるだろうか? 僕はシンバルを見て、「あっ、シンバルだ」としか思わない。 しかし、古い年季のこもった中国のシンバルなんかを見ると、 「これをたたいたら、神が降りてきそうだ」なんて思ったりする。 いわばそこに、「なにか」感じることはあるか?ということなのだ。 いわゆる楽器屋で売られている楽器たち。 美しいし、よく鳴るように作られている。 そんなの当たり前で、なんてったって商品だから。 合理的で、ムダを最大限に削ぎ取ったスマートなそのかたちは、 僕なんかちょっと都会的なよそよそしさを感じてしまう。 しかし、民族楽器とか、創作楽器は、僕の想像力を掻き立てる。 それはひとの手垢とか、傷とか、そこに秘められた時間であったり、 「音に関係あんの?」とも思われるユニークなかたち、 言い換えれば「ムダ」の部分が、僕にそう仕向けるのだ。 作曲家の野田暉行氏は〈打楽器ー現代のその可能性、危険性〉という著述の中で、 つぎのように述べている。 【ピアノのような楽器は今やコスモポリタンな楽器であり、民族性の発揮は作曲する人間の各個性に委ねられています。しかし、打楽器の場合、ティンパニーなんかはコスモポリタンですけれども、楽器がプリミティヴであればあるほど、楽器そのものが宿している民族的個性は強いと言わなくてはなりません。その民族性の中で作曲家が安易に仕事をするということを、わたしは極度に恐れています。確かに、それはそれなりの効果をもたらしますが、一方、自分の意志と関係ないところに幾らでも音楽が成立し得る、ということはあるわけで、それは現代の大きな危険性だと思うのです。】 これが書かれたのは1980年代だから、いまの氏の考えは変わっているかもしれぬ。 打楽器を取り巻く環境も変化しつつあるのは確かである。 しかし、作曲家が打楽器に対してどんな姿勢で扱うかを知る手がかりになる。 いわば、一般化・普遍化された楽器を用いて、自身の言葉を紡ぐことが、 作曲家の成すべき姿ではないかというのである。 それは、「あいうえお」の1つ1つは意味を持たない抽象的な音でしかないが、 そこから紡ぎ出される言葉や文章は具体的な意味を持つ、 それに似ている。 楽器屋で売られている楽器たちは、 「岩附智之」が「人間」というグループでくくられてしまったようなもんで、 そこに唯一性とか、個性といった印象は薄い。 その抽象性ゆえに、固定観念に縛られることなく自由に素材として扱うことができる。 しかし、これは作曲家の立場からのひとつの意見で、 僕なんかオーラムンムンの、“この世にたったひとつ”とかいう楽器に出会うと もう首ったけなのである。 そっちのほうが、俄然おもろいのである。 ステレオタイプの人間より、奇人変人に惹かれてしまうのは、 幸か不幸か、僕はそう育ってしまったから仕方ない。 だからといって楽器屋に売っている楽器を嫌悪しているわけでは決してない。 むしろ、ノドから手が出るほど欲しいのである。 人間は矛盾する生き物だから、どうしようもない。 それにしても、「又三郎」なんぞは、まだまだひよっこで、 親としては、ひとが思わず振り返る、そんなふうに育ってほしいと切に願うばかりだ。 そして、「又三郎」の兄弟を産むために、今夜も僕は励むのである。
by iwawai1980
| 2007-01-24 23:46
| 打楽器想法
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